夏目漱石、生田長江からニーチェの翻訳について相談される。【日めくり漱石/7月11日】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)7月11日の漱石は、少し寝坊してしまった。朝食を食べたのは午前10時頃だった。

夏目家の朝寝坊といえば、妻の鏡子の専売特許で、漱石はロンドンからの手紙でも、

《朝は少々早く起きるように注意ありたし。(略)夏目の奥さんは朝九時十時まで寝るとあっては少々外聞わるき心地せらる。そこもとは如何考えらるるや》

などと叱っている。

このとき漱石の想像力は、たくましくも、娘の筆子の将来の心配にまで及び、《筆などが嫁に行ってやはり九時十時まで寝るとあっては余は未来の婿に対して甚だ申し訳なき心地せらる》と綴り、最後は《つとめて己れの弊を除くは人間第一の義務なり。かつ早起きは健康上に必要なり》と付け加えた。

それくらいだから、漱石は普段は早起き。昭和の文学者は、川端康成や池波正太郎、山田風太郎などのように昼夜逆転(夜中に執筆して朝方に寝る)の者も少なくないが、そういう意味では漱石は学校教師時代と変わらぬ生活パターンを貫いていたのである。

だが、この日は疲れがたまっていたのか、鏡子よりも漱石の方が寝坊し、遅い朝食となった。珍しいことだった。

そうしているところへ、まもなく門弟の森田草平がやってきた。この頃、漱石の周旋で草平が朝日新聞に連載した小説『煤煙』を、単行本として春陽堂から刊行する準備が進んでいた。そんな相談ごとが、この日のひとつの題目だった。ロシアの文豪ドストエフスキーのことも、ふたりの間で話題に上った。ロシアの文学はこの頃、日本の文壇にも何かと影響をもたらしていた。

夜は、草平とも親しい評論家の生田長江の訪問を受けた。長江はふた月ほど前から、ドイツの哲学者ニーチェの『Also  Sprach  Zarathustra 』の翻訳に取り組んでいた。先駆的な仕事だった。

長江は、英訳版を参照して仕事を進めながら、不明のところや疑問点がいろいろ出てきて、漱石に教えを乞うためにやってきたのだった。漱石は早くから、カントやニーチェ、ベルグソンなど、ヨーロッパの哲学や思想に興味を持ち、研究を進めていた。余人にできぬ的確な助言がもたらされたのは言うまでもないだろう。

長江のこの翻訳原稿は、結局、この年の師走までかかり、翌年1月、『ツァラトゥストラ』のタイトルで新潮社から刊行された。昨今は『ツァラトゥストラはかく語りき』として知られるニーチェの代表的著作だった。

こののちニーチェの翻訳は長江のライフワークとなり、『ニーチェ全集』全10巻の翻訳・刊行を実現している。その陰にも、漱石先生のひそかな支えがあったのである。

■今日の漱石「心の言葉」
人間に個性の自由を許せば相互に窮屈になる。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも、この窮屈のやり所がなくって仕方なしに変形したものだね。(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
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休館/月曜
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横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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